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熊日「私を語る」ヤナワラバ-人生⑫司法試験勉強のため上京

12 司法試験勉強のため上京

 卒業の前年72年秋頃、私は当時、下通りにあった熊本共同法律事務所に司法試験を受けたいがどうしたらいいかと相談に行きました。その時に、松本津紀雄弁護士が熊本にいると受からないから東京に行きなさいと勧められました。
 私は、1973年4月29日板井八重子と結婚し、翌日上京して、東京の文京区大塚に居を構えました。八重子は研修医として氷川下セツルメント病院に勤めました。

 私は、勧めがあった東京大学法学部の学生たちで作っている司法試験の勉強会に入りました。当時は、全国に広がった学園紛争のため、前年に出来た東大の勉強会も割合扱いが緩やかで、広島大、都立大、早稲田大からも参加していました。
 とにかく、1年で合格するというのがこの勉強会の目標で、司法試験で考えられる全ての問題を1班5人くらいのメンバーで潰して行くというものでした。

 勉強会が始まるのは7月からで、それまでに気長に勉強ができるようにと、ベートーベンなどのクラシックを聴いて、その年5月第2日曜日の択一試験を受けました。ところが、その年の1月、私は椎間板ヘルニアを病んでおり、3時間の試験時間中2時間しか我慢できません。
 治さなくてはどうしようもない、と氷川下セツルメント病院に入院し、トイレと食事以外は固いべニア板の上で14キロの重しを付けて2ヶ月間闘病生活を送りました。おかげで手術は免れ、その年秋まではコルセットを付けた生活でした。

 勉強会では、川人博さん、田中隆さん、そして私具志堅優がリーダーとなり川人・田中・具志堅と3つの勉強会が出来ました。
 この勉強会では、熊大との違いを思い知らされました。教授陣に司法試験の出題者が多く、しかもその模範ノートのコピーが生協で売られているのです。決定的な違いは合格者の数です。
前年受かった人が翌年には論文の評価・添削をするのです。合格水準は人から人へと伝えられるのです。
 また、勉強会では、前年に28期で合格した友光健七さんのノートが参考にされ、私などは字体までも真似したものでした。
 2年目に12人が論文を合格しましたが、私だけが口術試験で落ちました。最終合格した11人は勉強会ノートを公刊し、後の受験ゼミの基になりました。

by itai-masaru | 2010-06-13 14:17 | ある日のこと  

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